2009年の総選挙で「コンクリートから人へ」という安易なスローガンの下で勝利した民主党だが、そのコンクリートが今回の東日本大震災とそれに続く大津波から人や町を守ったケースがあったので紹介したい。
岩手県下閉伊郡普代村は人口約3000人の太平洋に面した村である。河北新報社の記事によると普代村には「東北一」と呼ばれる高さ15.5メートル幅205メートルの普代水門(コンクリート製)があり、約25年前(1984年)に普代川河口から約300メートル上流に建造された。1896年の明治三陸大津波で死者・不明者が1010人に及んだ普代村は、その教訓から防災のための防壁設置を検討したようだ。今回の大津波では20メートルを超える波が来たが、震災直後に久慈消防署普代分署が遠隔操作で普代水門を閉めたため津波は水門の上流200メートル付近の河川域で止まったようだ。これにより行方不明者1人死者0人、住宅被害は床上浸水1棟という最小限の被害に抑えている(3月25日現在)。深渡宏村長は「水門のおかげで村民の生命財産が守られた。漁業施設の再建に全力で取り組みたい」と述べている。
宮城県本吉郡南三陸町は人口約17000人の太平洋に面する町である。そのうち約10000人と以前連絡がつかない状況で、3月14日までに1000人の死亡が確認されている状況だ。 そんな中スポニチなども報じているが、行方不明だった南三陸町の佐藤仁町長が生還を果たした。3月11日に佐藤町長は町議会3月定例会の最終日の閉会の挨拶のさなかに地震に襲われ、立っていることもままならず、議場にいた約40人は机の下に隠れた。地震が収まった後、町議らと共に総合防災庁舎へ移動しそこで津波到来の連絡を受け3階建ての屋上に上がった。その庁舎は、1960年のチリ地震津波での被害を教訓とし、高さ11メートルの鉄筋コンクリート製の建物であり、地震・津波をはじめとする災害時における救助や被災者支援などの拠点となる施設だった。津波第一波がこの庁舎から300メートル離れた高さ7メートルの防波堤をこえて押し寄せ、この庁舎の全ての壁と天井をうちぬいた。屋上の金網に必死ですがりついた10人ほどの町職員らは波が引くと金網ごといなくなった。佐藤町長の体は偶然、外の非常階段の手すりにぶつかってとまった。30人いた屋上への避難者のうち佐藤町長を含む10人が残り、その10人は高さ5メートルの2本のアンテナにのぼった。第2波、3波が到来し10人の下を波が何度も行きかったが彼らはアンテナにしがみつきながら耐えた。11日夜はアンテナの上で10人が流れ着いた発泡スチロールや木くずなどを燃やして暖を取り、12日朝になって庁舎に絡まっていた漁業用ロープをつかって地上におりた。彼らは昼前に避難所である同町スポーツ交流村に着き、避難していた住民とともに生還を喜んだという。佐藤町長は「拾った命。町民のために全力を尽くす」と述べ、3月13日より公務に復帰し災害対策本部を設置、陣頭指揮を執っている。14日の会見では、「壊滅した地区も複数あり、米や毛布、水など支援物資の不足が著しい」と、生活に関連する物資等の緊急支援の必要性を訴えた。
このように公共事業が名目GDP成長のみならず国民の生命や財産をも守っていることが今回の震災で再確認されている。にもかかわらず一部の財政再建派は国債発行を抑制しようとしている。今日本国民とくに被災された多くの方々が生活物資の不足や震災後のストレスなどで苦しんでおられる。その方々のためにも今すぐ国債を10~20兆円発行して復興支援に当てるべきなのだ。できれば発行した国債は日銀に買い取ってもらうべきだ。
また防災対策に関しても、地震その他災害が起こってからでは遅いのだ。しっかりと前もって防災のための公共事業を行い、町や人を守る体制をつくっておくべきなのだ。
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